信長公のおもてなし
「信長公のおもてなし」 が日本遺産に認定されたことは記憶に新しい。信長といえば、どうしてもルイス・フロイスの『日本史』の一節、彼はわずかしか、またはほとんどまったく家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた」や「彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした」とあるのが印象深く、傲岸(ごうがん)無礼、あるいは高慢不遜(ふそん)という言葉がぴったりと思っている人が多いかもしれない。
ところが、岐阜城主時代の信長は意外なことに、おもてなしに心をくだいていたのである。その落差にびっくりするくらいで、たとえば、イエズス会日本布教長フランシスコ・カブラルを迎えたときなどは、食事までの待ち時間に信長自ら果物を運んでいるし、彼らが肉を食べると聞くと、庭で飼っていた鳥を殺し、料理として出したほどである。
信長がまだ甲斐の武田信玄と友好関係にあったとき、信玄の家臣秋山虎繁が岐阜を訪れたが、信長は食事や能で接待したあと、長良川に船を浮かべ、鵜飼を見物させていたことが知られている。現代に続く長良川の鵜飼を守り伝えたのが信長だったのである。