『応仁の乱』 に学ぶ 市長 細江茂光
岐阜市では2017年を織田信長公の岐阜入城・岐阜命名450年目の年として、様々な事業が展開されています。なかでも、みんなの森ぎふメディアコスモスや岐阜市歴史博物館で開催されている 「信長公ギャラリー」 や 「Gifu信長展」 は大変好評で、連日多くの来場者で賑 (にぎ) わっています。織田信長公の岐阜入城・岐阜命名は今から450年前の1567年ですが、そのちょうど100年前の1467年に応仁の乱が勃発しました。つまり今年は応仁の乱から550年の節目の年ということになります。そのせいなのか、あるいは最近の世界や国内の状況が当時と似ているせいなのかどうかはわかりませんが、 応仁の乱をテーマにした本が最近ちょっとしたブームとなり多くの人に読まれているようです。
応仁の乱については様々な見方があります。日本の歴史は応仁の乱以降が重要なのだと唱える高名な歴史学者もおられるように、応仁の乱は地味そうに見えて意外に重要な意味合いを持った出来事だったのかもしれません。室町幕府という秩序が崩れる中、群雄割拠 (ぐんゆうかっきょ) の戦国時代の幕開けとなる応仁の乱は、将軍家の後継問題をめぐる細川勝元 (ほそかわかつもと) と山名宗全 (やまなそうぜん)の争いなどが端緒となって始まりました。10年以上続く戦乱は京都の町を荒廃させ室町幕府の衰退を招きました。室町幕府という大きな権威の崩壊と、それに続く群雄割拠の時代、つまり実力さえあれば誰でも国の支配者になれる実力主義時代の到来をもたらしたのが応仁の乱だったのかもしれません。
戦国の世は織田信長公、豊臣秀吉公などの多くの優れた武将を育み、徳川家康公が江戸幕府を開くことでようやく落ち着きを取り戻すことになりました。応仁の乱の時代背景を現代社会に照らし合わせてみると、ちょっとした類似性を感じます。戦後の世界の価値観の中心をなしてきたアメリカ合衆国の最近の自国優先主義の主張や、EU (欧州連合) の足並みの乱れが世界を流動化させ、従来の権威を失墜させている様は、 まさに応仁の乱の当時を彷彿 (ほうふつ)とさせます。この混乱の中から、未来を見通すことのできる聡明な頭脳を持ち、人類の融和を実現できる新しい価値観を持った世界的指導者が出現することを願わずにはいられません。