●「多様性」と「個の復権」 市長 細江 茂光
最近、生物多様性とか多文化共生といった言葉をよく耳にするようになりました。これは、動物や植物の生態系においても、人間社会においても、「多様な個」が存在できる環境であることが生物や人間の持続的発展にとって不可欠であると認識され始めた証(あかし)と言えるでしょう。また、多様な生物が絶滅せず存在できるかどうかは、人間が生きていくための環境が確保されているかどうかのバロメーターとも言えます。
多様な価値観のぶつかり合いはエネルギーを生み出します。移民の受け入れによって形成された多民族国家アメリカは、かつて人種の坩堝(るつぼ)と言われました。坩堝とは鉄などを強く熱したり溶かしたりする時に用いる容器のことです。人種の坩堝アメリカでは世界中の多様な価値観や文化が熱くぶつかり合い、火花を散らすことで大きなエネルギーや新たな価値観、流動性を生み出し、世界有数の国家となっていきました。アメリカの発展を支えてきた「多様性」「多様な文化や価値観」を否定しかねないような最近の自国優先主義の主張には憂慮の念を抱かざるをえません。この動きが世界に蔓延(まんえん)すれば「世界の多様性」をも脅(おびや)かしかねません。
時として「多様性」と「協調性」は対極として語られるかもしれません。聖徳太子の十七条憲法に「和を以(もっ)て貴しとなす」とあるように島国である日本にあっては、いさかいを起こさず互いに仲良く協調することが重要ということでしょうか。しかしそれは「個」や「多様性」を押し殺してまで「協調性」を優先しようということではないと思います。最近、19世紀の心理学者アルフレッド・アドラーの「嫌われる勇気」という本が脚光を浴びています。ともすれば人は「他人に嫌われたくない」「他人にどう見られているか」が気になり、「自分自身を生きていない」のではないか。嫌われてもいいから自分の思うところ、自分の「個」を生きようではないか、と語りかけています。自分自身を生きるが多い社会こそまさに「多様性に富んだ社会」と言えるでしょう。今こそ、それぞれに光り輝く「個」が復権できる社会をつくる必要があります。
人生にしても、絵画や音楽などの芸術にしても、さまざまに個性に富んだ人がいたり、いろいろな色彩や音色に満ちていたほうが楽しく、こころ豊かに感じられるじゃありませんか。