岐阜時代の信長公をめぐる女性
斎藤道三と織田信秀との講和のとき、道三の娘が信長に嫁いでいる。ふつう濃姫とか帰蝶といわれているが、たしかな名はわからない。二人の間に子どもは生まれていないし、いつまで一緒に生活していたかも明らかではない。
信長の長男信忠、二男信雄、長女五徳を産んだのは濃姫ではなく、生駒家宗の娘吉乃(きつの)で、吉乃が信忠を産んだのが弘治三(一五五七)年なので、それ以前に濃姫は亡くなったか離縁されたと考えられてきた。ところが、横山住雄氏が紹介された「快川(かいせん)和尚法語」によると、雪渓宗梅大禅定尼とおくり名された女性が天正元(一五七三)年十二月二十五日に亡くなり、彼女は「岐陽太守鐘愛」の女性だったという。この時点で「岐陽太守」は信長である。吉乃はすでに永禄九(一五六六)年に亡くなっているので、この雪渓宗梅大禅定尼が濃姫だったのかもしれない。
信長には、三男信孝を産んだ坂氏など何人かの側室がおり、岐阜城で暮らしていた。七男信高と八男信吉を産んだお鍋の方は、夫だった小倉実澄が信長に味方したため殺されてしまい、岐阜城に赴いてその事情を話したところ、信長が同情し、そのまま側室にしている。