足利将軍家を意識した岐阜城の庭園
岐阜城の山麓居館部分の発掘調査の結果、現在までのところ、五ヵ所の庭園遺構が確認されており、これは、ルイス・フロイスの 『日本史』に、「庭と称するきわめて新鮮な四つ五つの庭園があり・・・・・・ 」 という記述とみごとに一致する。
五つの庭は全部形状が異なっており、多くは円礫 (えんれき:丸い小石) を弧状に敷く州浜(すはま)が基本であるが、平成二十一 (二〇〇九)年度の調査で明らかになった槻谷 (けやきだに) の一番奥の庭園は少しちがっていた。石組みで護岸され、池底に白い砂と川原石が敷かれていたのである。 『日本史』 が記す「その底には入念に選ばれた鏡のように滑らかな小石や目にも眩(まばゆ)い白砂があり・・・・・・ 」 という情景と全く同じだったのである。
そして、この庭の造りが、八代将軍足利義政の別荘である東山殿、すなわち慈照寺銀閣の庭と瓜二つだったのである。信長というとどうしても革新的といったイメージがあるが、意外と足利義政を意識していたのかもしれない。
義政の所持していた名物茶器を手に入れようとしていたし、岐阜城主時代の天正二(一五七四) 年三月、正倉院の名香蘭奢待 (らんじゃたい) を切り取っているが、切り取った箇所は義政が切り取った箇所の続きであった。