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信長公と岐阜7 小和田哲男

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岐阜県岐阜市

岐阜城の信長居館
 岐阜城は、山麓の居館部分と、山上の詰の城部分の二つに分かれ、山麓居館は千畳敷の名で知られている。槻谷(けやきだに)とよばれる谷の中央部を小さな川が流れ、その自然地形を巧みにとりこみ、斜面を階段状に削って平坦面を作り、そこに建物群を造営していた。
 そこにどのような建物があったのか、残念ながら日本側の文献からはわからなかったが、岐阜城の信長を訪ねたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスの『日本史』およびフロイスの一五六九年七月十二日付メルショール・デ・フィゲレード宛書簡と近年の発掘調査からある程度のことがわかってきた。
 何といっても注目されるのは、山麓居館に四階建の御殿があったことである。フロイスはこれを「宮殿」と
表現しているが、城で四階建の建物が築かれたのは、この信長の岐阜城四階御殿が最初で、このあと、七階建の安土城天主へとつながるものと思われる。ちなみに、岐阜城四階御殿も「天主」とよばれたとする説もある。
 なお、発掘調査によって、菊花文と牡丹文の金箔飾り瓦も出土しており、これも従来は信長の金箔瓦使用は安土城からといわれていたが、岐阜城がはじめてということがわかった。

       

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