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信長公と岐阜6 小和田哲男

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岐阜県岐阜市

「天下布武」と天道思想
 信長が「天下布武」の四文字を印文とする印判状を出しはじめるのが、岐阜城入城直後の永禄十(一五六七)年十一月からである。今日、現物として伝わる一番早いものは「永禄十年十一月日」の日付のある兼松又四郎宛のものである(「兼松文書」)。
 印の形もはじめは楕円形で、元亀元(一五七◯)年からは馬蹄形となり、天正五(一五七七)年からは双龍がとりまく形となった。印文を選んだのは「政秀寺記録」によると、政秀寺の開山となった妙心寺派の禅僧沢彦宗恩(たくげんそうおん)という。
 この「天下布武」を、「武力によって天下を取ってやる」といった宣言と受けとるむきもあるが、これは「天下に武を布(し)く」と読んで、公家(朝廷勢力)・寺家(寺社勢力)を排し、武家が政治の実権を握るというスローガンであった。なお、最近、研究者の間では、この「天下」を日本全国の意味にはとらず、畿内近国をさすという意見も出されている。
 また、戦国時代、武士たちの中に定着していたのが天道思想である。『信長公記』を著わした太田牛一も、たびたび「天道おそるべし」と書いており、天道思想とのかかわりも無視できないように思われる。

       

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